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三河国・岡崎城で生まれたとされる。
幼少時代は駿府の今川義元のもとで人質として過ごすが、桶狭間の戦いで今川が戦死したのちは信長と盟友となり、天下を目指す。
長篠の戦い、関ケ原の戦い、大阪の陣。数々の戦を乗り越え、天下人となる。1603年、征夷大将軍となり280年続く江戸幕府を開く。
秀吉の天下取りを支えた最強の軍師。その実力を恐れた秀吉は天下統一ののち官兵衛に12万石の所領しか与えなかった。
キリシタン大名でも知られ、洗礼ネームは「シメオン」。
黒田官兵衛の嫡男。幼少時代は人質として豊臣秀吉に預けられる。官兵衛が投獄された際に、裏切りの疑いをかけられ殺されかけたが、竹中半兵衛が機転を利かせ危機を脱した。
賤ヶ岳の戦い、朝鮮出兵での活躍。また、関ケ原の戦いでは調略により東軍の勝利に大きく貢献したと伝わる。
徳川四天王のひとりで「家康に過ぎたるものが2つある。唐の頭と本多平八」と称された。
50余りの合戦に参加し一度も傷を負わなかったという逸話が残る。
愛用の大槍「蜻蛉(とんぼ)切り」は天下三名槍のひとつで刃先にとまったとんぼが真っ二つになったことから名付けられた。
徳川四天王のひとり。軍装を朱色で統一し、合戦では常に最前線をつとめ、井伊の赤備として恐れられた。関ケ原の戦いののち近江彦根18万石を与えられ、新たな城の築城を計画するが、島津軍に受けた傷が原因で関ケ原の戦いから2年後に死去。遺志を受け継いだ子の直継が金亀山の頂上に天守を築いた。これが彦根城である。
島津に暗君なしと言われた、名門島津家15代当主・貴久の次男。
九州の桶狭間ともいわれる木崎原の戦い(1572年)では伊東祐安率いる3000の軍に対して島津義弘はわずか300という数にかかわらず地の利を生かし島津家得意技「釣り野伏せ」により勝利している。
また大友宗麟と対立した耳川の戦い(1578年)、龍造寺隆信と対立した沖田畷の戦い(1584年)にも勝利し、九州平定もう一歩のところまで迫った。
関東を支配していた後北条家の三代目当主。
10倍の兵力差がありながらも勝利した日本三大奇襲の一つである川越夜戦はにかぞえられる。
武田信玄、上杉謙信も落とせなかった小田原城は難攻不落の城と呼ばれた。
豊臣政権五大老のひとり。嫁の豪姫は前田利家の娘。関ヶ原の戦いでは福島正則と激しい戦いを繰り広げるが敗北。合戦後は八丈島に流刑となり、余生を過ごした。
友好関係を結ぶため、織田信長の妹「お市の方」を正室に迎える。しかし、信長が約束を破り朝倉を攻めると、同盟関係を重んじ、反信長に転じる。姉川(1573年)の戦いで、織田信長に敗れ自害する。
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