田中吉政に関わる城

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八幡山城(滋賀県)
秀吉の甥の羽柴秀次が居城としていた城。このとき田中吉政は家老を務めていた。
八幡山(標高283m)に築城された急峻な山城であるが城下町の一部に琵琶湖の水を引いて作られた堀があり、城の守りだけでなく水運のための運河の役割も果たしていた。
秀次事件(1595年)で秀次が切腹すると代わって入城した京極高次は大津城へ移り、築城から10年で八幡山城は廃城となった。

日野城(滋賀県)
蒲生氏郷の祖父・定秀が築城。蒲生氏が織田信長の臣下となり、本能寺の際は、蒲生氏郷とその父・賢秀とは織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れた。氏郷が伊勢に移った後は田中吉政、長束正家が入り、関ヶ原の戦い以降廃城となった。

岡崎城(愛知県)
徳川家康出生の城とされ、徳川系の代々格式高い譜代大名が置かれたが、小田原征伐後(1590年)秀吉による領地の大幅な変更が行われると徳川家康は関東に移され、田中吉政は岡崎城を与えられた。
明治初期に天守は取り壊されたが、1959年に再建された。

佐和山城(滋賀県)
石田三成が居城としており、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と表現された。
東軍勝利後、田中吉政は佐和山城を宮部長煕と共に搦手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛する大功を挙げた。
関ケ原の戦い後、建造物は彦根城築城のため移築されたとみられ城址にはほとんど何も残っていない。

柳川城(福岡県)
攻略には3年かかると謳われた九州屈指の難攻不落の城。
豊臣秀吉の九州征伐後、立花道雪の養子である立花宗茂が城主となり秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いの戦後処理により、西軍側だった宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となる。吉政は筑後の府に相応しく城地を拡張した。
明治以降も増改築を繰り返し、建築された迎賓館「西洋館」とそれに続く本館、日本庭園である「松濤園」が現存する。

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