松山城
賤ヶ岳の七本槍のひとり「加藤嘉明」が朝鮮出兵での経験を活かし築城。石垣が山に対して垂直に築かれた側面からの侵入を防ぐ「登り石垣」が見られ、これは全国でも他彦根城、洲本城でしか見られない珍しい造りである。
現在残る天守は1852年に建てられたもので現存12天守の一つに数えられる。
また姫路城と同じように天守は櫓と渡り櫓で繋がれ桝形を形成する連立式天守である。
今治城
高松城、中津城と共に日本三大水城に数えられ、堀には海水が流れ込む。
築城の名人「藤堂高虎」により築城。初の層塔型天守と言われている初代の天守は高虎転封と共に解体され丹波亀山城に移された。
大洲城
天守は明治時代に取り壊しとなったが、付属する高欄櫓、台所櫓は解体を免れいずれも重要文化財に指定。天守は写真やひな形をもとに平成16年に木造復元された。背後を流れる肱川を利用し、自然の要害をなしている。
宇和島城
築城の名人「藤堂高虎」が広陵に築いたことから始まる。城の外郭は上から見ると不等辺5角形をしており、名人高虎ならではの工夫が見られる。そののち伊達政宗の息子の秀宗が入り幕末まで藩主をつとめた。
湯築城
河野氏によって築かれた。秀吉の四国平定の際に小早川隆景や福島正紀らが一度入城したのち廃城となった。今では武家屋敷、堀が復元され遠くの山に松山城を見ることができる。
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