本多忠勝
徳川四天王のひとりで「家康に過ぎたるものが2つある。唐の頭と本多平八」と称された。
50余りの合戦に参加し一度も傷を負わなかったという逸話が残る。
愛用の大槍「蜻蛉(とんぼ)切り」は天下三名槍のひとつで刃先にとまったとんぼが真っ二つになったことから名付けられた。
井伊直政
徳川四天王のひとり。軍装を朱色で統一し、合戦では常に最前線をつとめ、井伊の赤備として恐れられた。関ケ原の戦いののち近江彦根18万石を与えられ、新たな城の築城を計画するが、島津軍に受けた傷が原因で関ケ原の戦いから2年後に死去。遺志を受け継いだ子の直継が金亀山の頂上に天守を築いた。これが彦根城である。
榊原康正
13歳で家康にその能力を見出され小姓となる。
姉川の戦い、 三方ヶ原の戦い、小牧長久手の戦い家康の参加する合戦に必ず参陣し主君を守り続け武功を挙げた。
関ケ原の戦いでは秀忠を補佐役し上田城を攻めるも落とせず、ともに本戦に遅参する結果となったが秀忠を叱責する家康を諫めた。
群馬館林10万石を領し、初代藩主となった。
酒井忠次
古く方徳川家に仕える豪族で東三河は酒井家、西三河は石川家が任された。
三河一向一揆では吉田城攻め(1564年)で先鋒を担い、無血開城に成功。この功績により吉田城を与えられる。
長篠の戦いでは別動隊を率いて長篠城を囲む武田軍に奇襲攻撃を仕掛けた。これにより武田軍は退路を断たれ混乱。長篠の戦い勝利の大きな要因とされる。
51歳で嫡男家継に家督を譲り隠居した。
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