カテゴリー別アーカイブ: 城・歴史

徳川15代将軍

初代 徳川家康

・織田信長、豊臣秀吉と共に三英傑に数えられ、260年に及ぶ江戸幕府の礎を築いた。
・三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した家康は一矢報いようと夜営していた武田軍を奇襲。崖にかかった橋に見せかけた布に、戸惑う武田軍は次々に転落したと伝えられ、今も「布橋」という地名が残る
・家康亡き後は「一周忌を過ぎたら下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」の遺言通り、日光東照宮に祀られ神格化されている。

2代目 徳川秀忠

・三男だが、上の子が切腹や養子になっていたため、家康の後継者となった。
・浅井三姉妹の末っ子「お江」を嫁に持つ(秀忠2度目の結婚)。娘の千姫は姫路城に深く関わり銅像が残る。
・関ヶ原の戦いでは戦に向け進軍中、上田城で真田親子の激しい抵抗や、天候不良により戦に間に合わなかった。また無理な進軍により兵を疲弊させたことに対して父家康から叱責を受けた。

3代目 徳川家光

・幼名は祖父家康と同じ竹千代
・参勤交代を制度化し、諸大名が力(資金)をためこないよう調節しを磐石のものとした。
・島原の乱ののち、宗教の拡大を危険視した家光は鎖国の強化とキリスト教禁止政策を行なった。

4代目 徳川家綱

・幼名は父家光と同じく竹千代
・先代が行ってきた力による政治から、各藩の大名への配慮を含んだ政策を行った。その中でも印象的は3つの政策「末期養子禁止の緩和(1651年)」「殉死の禁止(殉死の禁止)」「大名商人の廃止(1665年)」は三大美事と評価された。また、これらの政策は、祖父秀忠と側室の子「保科正之」が主導して行われた。

5代目 徳川綱吉

・3代目家光の4男
・病弱な兄、4代目家綱に代わり後継者候補となるが、家綱時代の大老が反対し別の人物を擁立した。この提案は徳川光圀(水戸黄門)により却下され、綱吉は5代目将軍に抜擢された。
・綱吉の代表的な政策「生類憐みの令」は悪政と言われる一方、戦国時代から払拭されない命を軽んじる考えを断ち、命を尊ぶための政策だったとも解釈されている。

6代目 徳川家宣

・父は3代目家光の三男、徳川綱重
・48歳で将軍になり51歳で亡くなるまで任期は約3年
・5代目綱吉の政策「生類憐みの令」や、酒の価格が高騰し民衆から不満の種となっていた「酒税」を撤廃した。

7代目 徳川家継

・父は6代目家宣。父が病に倒れたあと、歴代最年少となる5歳で将軍となった。
・幼く政治力がなかったため、家宣時代から重要さらていた間部詮房と荒井白石が政治を主導した。
・婚約者もいた家継だったが、幼くして病に伏した。これにより徳川秀忠から続く徳川宗家の血筋は断絶した。

8代目 徳川吉宗

・宗家が途絶え、後継問題となった江戸幕府。当日紀州藩五代藩主だった吉宗が将軍に抜擢された。
・暴れん坊将軍のモデルとして馴染み深い人物像
・江戸の3大改革の1つ「享保の改革」により幕府の財政は好転したが、重税や厳しい倹約により民衆の不満はつのり、多くの一揆が怒り、吉宗は「米将軍」とも呼ばれた。

9代目 徳川家重

・家重は8代目吉宗と側室との間に長男として誕生。家重31歳の時に将軍となったが、その後も吉宗が大御所として実権を握っていた。
・吉宗が次男宗武、四男宗尹を家重が次男重好を別家として取り立てたことで御三家の次ぐ家格を持つ御三卿が誕生した。将軍家に跡継ぎがいないとき、後継者を提供する役割をになった。

10代目 徳川家治

・9代目家重の嫡男。祖父吉宗の寵愛と熱心な教育を受け、聡明で多芸な人物へと育った。
・政治は父家治の代から仕えた田沼意次が主導して行っていた。吉宗の代から行われてきた農業を頑張って富を豊かにする経済政策から、商売(物流)により富を豊かにする経済政策に切り替えた。
・愛妻家で跡継ぎのため、1人だけ側室をもったが、男子が産まれると、子育ては正室に任せ、その後側室を持つことはなかった。

11代目 徳川家斉

12代目 徳川家慶

13代目 徳川家定

14代目 徳川家茂

15代目 徳川慶喜

東北の石垣造り三大名城

盛岡城(岩手県)

秀吉から所領を認められた南部信直・利直親子が中津川と北上川の交わる丘陵に築かれた築いた平山城。以後明治維新まで南部氏の居城となった。初め天守台はあったが、天守は建てられなかった。後に御三階櫓が建てられ天守代用としたが明治初頭にほとんどの建物が解体された。花崗岩を利用した積まれた石垣は他の城では見られない盛岡城の特徴となっている。

会津若松城(福島県)
室町時代からあった黒川城を秀吉の奥州仕置の後、蒲生氏郷が入城し、改修。また名を若松と改めた。その後五大老となり120万石を与えたれた上杉景勝が入封するが、関ケ原で西軍が敗北したため所領も30万石に減らされ転封となり、再び蒲生氏が入る。江戸時代に入ると保科正之が入城し以後会津松平氏の居城となった。幕末の戊辰戦争では会津藩と新政府軍の激しい戦いが繰り広げられたが堅牢ぶりをみせつけ新政府軍に最後まで抵抗した。

白河小峰城(福島県)
日本100名城の1つ(13番)で丹羽長秀の子・丹羽長重が築城。その後城主を何度か変え戊辰戦争を迎えると、幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となり会津藩の攻撃を前に守備兵が城を焼いて退却したため主要部を焼失、その後の戦い・破却で建造物は失われた。現在の櫓は平成3年に木造復元された。

徳川四天王

本多忠勝
徳川四天王のひとりで「家康に過ぎたるものが2つある。唐の頭と本多平八」と称された。
50余りの合戦に参加し一度も傷を負わなかったという逸話が残る。
愛用の大槍「蜻蛉(とんぼ)切り」は天下三名槍のひとつで刃先にとまったとんぼが真っ二つになったことから名付けられた。

井伊直政
徳川四天王のひとり。軍装を朱色で統一し、合戦では常に最前線をつとめ、井伊の赤備として恐れられた。関ケ原の戦いののち近江彦根18万石を与えられ、新たな城の築城を計画するが、島津軍に受けた傷が原因で関ケ原の戦いから2年後に死去。遺志を受け継いだ子の直継が金亀山の頂上に天守を築いた。これが彦根城である。

榊原康正
13歳で家康にその能力を見出され小姓となる。
姉川の戦い、 三方ヶ原の戦い、小牧長久手の戦い家康の参加する合戦に必ず参陣し主君を守り続け武功を挙げた。
関ケ原の戦いでは秀忠を補佐役し上田城を攻めるも落とせず、ともに本戦に遅参する結果となったが秀忠を叱責する家康を諫めた。
群馬館林10万石を領し、初代藩主となった。

酒井忠次
古く方徳川家に仕える豪族で東三河は酒井家、西三河は石川家が任された。
三河一向一揆では吉田城攻め(1564年)で先鋒を担い、無血開城に成功。この功績により吉田城を与えられる。
長篠の戦いでは別動隊を率いて長篠城を囲む武田軍に奇襲攻撃を仕掛けた。これにより武田軍は退路を断たれ混乱。長篠の戦い勝利の大きな要因とされる。
51歳で嫡男家継に家督を譲り隠居した。

リンク:お城くいず
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山内一豊に関わるお城

黒田城(愛知県)
山内一豊の父盛豊は、岩倉織田氏の家老を務めていたとされ、支城の黒田城を預かっていた。天文14年(1545)に、生まれた一豊は13歳でこの城を離れたと彫られている。

長浜城(滋賀県)
信長が浅井を滅ぼし、所領を与えられた秀吉が初めて築いた城。もともと今浜と呼ばれる土地だったが秀吉が信長の名前をとり長浜に改めたといわれる。清須会議以後柴田家が居城としていたが賤ヶ岳の戦いの後、山内一豊が入り、6年間在城した。

掛川城(静岡県)
日本100名城の1つ(42番)。
徳川家康が関東に移されるとは山内一豊が入城し近世城郭へと改修された。天守は幕末に建て壊されたが、平成6年に一豊の転封先である高知城を模した天守が木造復元された。関ケ原の戦いの際に家康に掛川城を提供し恭順を示すことで、戦後土佐一国を与えられた。

高知城(高知県)
現存12天守のひとつ。現在の天守は1747年に再建された2代目天守(1代目の天守は火事により焼失)。 また本丸が完存する貴重な城。関ケ原の戦いののち土佐の藩主となった山内家は幕末まで藩主をつとめた。
近年、大阪城、高田城(新潟県)とともに日本三大夜城に選ばれた。

郡上八幡城(岐阜県)
小説家・司馬遼太郎先生が「街道をゆく」の中で、日本一美しい山城と紹介したお城。 山内一豊の妻・千代が初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘との説があり、山麓には2人の像がある。現在の天守は昭和8年に木造で復元されたもので木造復元天守の中で最も古い。

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日本三大水城(海城)

中津城、今治城、高松城が日本三大水城に数えられ、堀には海水が流れ込む。

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今治城、高松城とともに日本三大水城のひとつに数えられる。
1588年秀吉に豊後を与えられた官兵衛が築城を開始。
西を川、北を海に面しており、海運の利用を意識した設計をされている。

黒田家が関ケ原の戦いの功により筑前が与えられると、細川忠興が入封し改修し城郭が拡張された。

今治城(愛媛県)

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築城の名人「藤堂高虎」により築城。初の層塔型天守と言われている初代の天守は高虎転封と共に解体され丹波亀山城に移された。
海水を取り入れた水堀は幅が広いところで60mにも及ぶ。

今治城の石垣は直線的でそりが少ない藤堂高虎流の石垣となっている。

高松城(香川県)

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羽柴秀吉に讃岐を与えられた生駒親正が築城。堀に海水が流れこむ。
天守は最上階が下層より飛び出した南蛮造りという珍しい造りだったが明治に取り壊された。現在では月見櫓、丑寅櫓が残り準用文化財に指定されている。また船を迎えるための水手御門が残り全国唯一の現存例となっている。

戦国武将くいず(初級)

次の画像見て戦国武将を当てる。
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①徳川家康

三河国・岡崎城で生まれたとされる。
幼少時代は駿府の今川義元のもとで人質として過ごすが、桶狭間の戦いで今川が戦死したのちは信長と盟友となり、天下を目指す。
長篠の戦い、関ケ原の戦い、大阪の陣。数々の戦を乗り越え、天下人となる。1603年、征夷大将軍となり280年続く江戸幕府を開く。

②黒田官兵衛

秀吉の天下取りを支えた最強の軍師。その実力を恐れた秀吉は天下統一ののち官兵衛に12万石の所領しか与えなかった。
キリシタン大名でも知られ、洗礼ネームは「シメオン」。

③黒田長政

黒田官兵衛の嫡男。幼少時代は人質として豊臣秀吉に預けられる。官兵衛が投獄された際に、裏切りの疑いをかけられ殺されかけたが、竹中半兵衛が機転を利かせ危機を脱した。
賤ヶ岳の戦い、朝鮮出兵での活躍。また、関ケ原の戦いでは調略により東軍の勝利に大きく貢献したと伝わる。

④本多忠勝

徳川四天王のひとりで「家康に過ぎたるものが2つある。唐の頭と本多平八」と称された。
50余りの合戦に参加し一度も傷を負わなかったという逸話が残る。
愛用の大槍「蜻蛉(とんぼ)切り」は天下三名槍のひとつで刃先にとまったとんぼが真っ二つになったことから名付けられた。

⑤井伊直政

徳川四天王のひとり。軍装を朱色で統一し、合戦では常に最前線をつとめ、井伊の赤備として恐れられた。関ケ原の戦いののち近江彦根18万石を与えられ、新たな城の築城を計画するが、島津軍に受けた傷が原因で関ケ原の戦いから2年後に死去。遺志を受け継いだ子の直継が金亀山の頂上に天守を築いた。これが彦根城である。

⑥島津義弘

島津に暗君なしと言われた、名門島津家15代当主・貴久の次男。
九州の桶狭間ともいわれる木崎原の戦い(1572年)では伊東祐安率いる3000の軍に対して島津義弘はわずか300という数にかかわらず地の利を生かし島津家得意技「釣り野伏せ」により勝利している。
また大友宗麟と対立した耳川の戦い(1578年)、龍造寺隆信と対立した沖田畷の戦い(1584年)にも勝利し、九州平定もう一歩のところまで迫った。

⑦北条氏政

関東を支配していた後北条家の三代目当主。
10倍の兵力差がありながらも勝利した日本三大奇襲の一つである川越夜戦はにかぞえられる。
武田信玄、上杉謙信も落とせなかった小田原城は難攻不落の城と呼ばれた。

⑧宇喜多秀家

豊臣政権五大老のひとり。嫁の豪姫は前田利家の娘。関ヶ原の戦いでは福島正則と激しい戦いを繰り広げるが敗北。合戦後は八丈島に流刑となり、余生を過ごした。

⑨浅井長政

友好関係を結ぶため、織田信長の妹「お市の方」を正室に迎える。しかし、信長が約束を破り朝倉を攻めると、同盟関係を重んじ、反信長に転じる。姉川(1573年)の戦いで、織田信長に敗れ自害する。

田中吉政に関わる城

八幡山城(滋賀県)
秀吉の甥の羽柴秀次が居城としていた城。このとき田中吉政は家老を務めていた。
八幡山(標高283m)に築城された急峻な山城であるが城下町の一部に琵琶湖の水を引いて作られた堀があり、城の守りだけでなく水運のための運河の役割も果たしていた。
秀次事件(1595年)で秀次が切腹すると代わって入城した京極高次は大津城へ移り、築城から10年で八幡山城は廃城となった。

日野城(滋賀県)
蒲生氏郷の祖父・定秀が築城。蒲生氏が織田信長の臣下となり、本能寺の際は、蒲生氏郷とその父・賢秀とは織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れた。氏郷が伊勢に移った後は田中吉政、長束正家が入り、関ヶ原の戦い以降廃城となった。

岡崎城(愛知県)
徳川家康出生の城とされ、徳川系の代々格式高い譜代大名が置かれたが、小田原征伐後(1590年)秀吉による領地の大幅な変更が行われると徳川家康は関東に移され、田中吉政は岡崎城を与えられた。
明治初期に天守は取り壊されたが、1959年に再建された。

佐和山城(滋賀県)
石田三成が居城としており、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と表現された。
東軍勝利後、田中吉政は佐和山城を宮部長煕と共に搦手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛する大功を挙げた。
関ケ原の戦い後、建造物は彦根城築城のため移築されたとみられ城址にはほとんど何も残っていない。

柳川城(福岡県)
攻略には3年かかると謳われた九州屈指の難攻不落の城。
豊臣秀吉の九州征伐後、立花道雪の養子である立花宗茂が城主となり秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いの戦後処理により、西軍側だった宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となる。吉政は筑後の府に相応しく城地を拡張した。
明治以降も増改築を繰り返し、建築された迎賓館「西洋館」とそれに続く本館、日本庭園である「松濤園」が現存する。

大分県の訪れたい歴史スポット

杵築城

1586年の豊薩戦争では木付鎮直が籠城し豊臣勢の加勢により名門「島津家」の侵略を退ける。主君の大友義統が文禄の役での失態の責めを負って秀吉により幽閉されると、木付氏も自刃した。その後、いくどか城主を変え、丹後宮津城主であった細川忠興が飛び地として所領を与えられる。
九州の関ヶ原と言われる「石垣原の戦い」の舞台となった(1600年)。

中津城

今治城、高松城とともに日本三大水城のひとつに数えられる。
1588年秀吉に豊後を与えられた官兵衛が築城を開始。
黒田家が関ケ原の戦いの功により筑前が与えられると、細川忠興が入封し改修し城郭が拡張された。

臼杵城

臼杵湾に浮かぶ丹生島に築いた海城で出家した大友宗麟が身を隠した城。四方を海に囲われ数多くの櫓が立ち並んだ。現在では二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、現存する。

大分府内城

100名城の一つ。
安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が築城を開始し、関ヶ原の戦いの後に入封した竹中重利が完成させた。縄張りの北方は海、東方は大分川に面する。明治維新後も破却を免れるが、戦争により櫓を数棟焼失し宗門櫓と人質櫓のみが現存する。

岡城

大分府内城と同じく100名城の一つ。
もともとは標高95mの天神山に築かれた古い山城であったが、1594年に中川秀成が入ってから石垣を多用した近世城郭となった。櫓や御殿がつくられたが、明治時代になり建物はすべて解体された。
作曲家滝廉太郎の代表曲「荒城の月」は荒廃した岡城をイメージして作曲したとされる。

細川忠興に関する城

宮津城(京都府)
丹後国の国を与えられた細川忠興の父・藤高が築城を開始。
本能寺の変に伴い出家し、幽斎と名を改めため父に代わり細川忠興が城主となる。(幽斎は田辺城に隠居)

関ヶ原の戦い後、豊前国に転封した細川家の代わりに京極高知が丹後国12万3千石を拝領し入封した。

杵築城(大分県)
1586年の豊薩戦争では木付鎮直が籠城し豊臣勢の加勢により名門「島津家」の侵略を退ける。主君の大友義統が文禄の役での失態の責めを負って秀吉により幽閉されると、木付氏も自刃した。その後、いくどか城主を変え、丹後宮津城主であった細川忠興が飛び地として所領を与えられる。

九州の関ヶ原と言われる「石垣原の戦い」の舞台となった(1600年)。

中津城(大分県)
今治城、高松城とともに日本三大水城のひとつに数えられる。
1588年秀吉に豊後を与えられた官兵衛が築城を開始。

黒田家が関ケ原の戦いの功により筑前が与えられると、細川忠興が入封し改修し城郭が拡張された。

小倉城(福岡県)
細川忠興が関ヶ原の戦いの功により豊前国を与えられると初め中津城に入城するが、7年かけて毛利氏の小倉城を改築し、居城とした。
天守は最上階が下層をよりも飛び出した全国的にも珍しい南蛮造りと言われる造りになっている。

細川家が肥後国に移ると、譜代大名として播磨国から小笠原忠真が入城する。

熊本城(熊本県)
賤ヶ岳の七本槍のひとり加藤清正が築城。豊臣秀頼の万が一に備え迎え入れることも視野に入れ築かれた大城郭。
清正が朝鮮出兵での経験をいかし籠城戦の工夫が多くみられる。
加藤家が改易されると豊前小倉城主だった細川忠興の子・忠利が城主となり、以後細川家が明治維新まで城主をつとめた。
西南戦争の際に西郷隆盛が落とせなかった名城である。

黒田官兵衛に関するお城

姫路城(兵庫県)

黒田氏が小寺政職の家臣であった時に居城としていた。(その時は今ほど立派な城郭ではなかった)秀吉の中国攻めの際にいち早く織田勢の躍進を見抜いた黒田官兵衛から秀吉に献上されそのまま仕えることとなった。国宝五城の一つであり天守唯一の世界遺産。現存する天守の中でももっとも高い。天守に到達するまでにいくつも門があり、その多くが現存し重要文化財に指定されている。関ケ原の戦いの後、池田輝政が入城し、その後も本多、松平、榊原、酒井と城主が変わっているため、様々な門を見ることができる。

名護屋城(佐賀県)

朝鮮出兵の拠点として築かれた城。縄張りを黒田官兵衛が設計したとされる。
周囲には全国から終結した諸大名の陣屋が130以上並びその賑わいは「京をもしのぐ」と言われた。
文禄慶長の役が終わると廃城となり、建物の多くは解体され、唐津城築城に転用されたとされる。

福岡城(福岡城)
関ケ原の戦いの功により筑前を与えられた黒田親子が築城を開始。
福岡城の名前は黒田家ゆかりの備前邑久群福岡にちなみ名付けられ、明治維新まで黒田家の居城として領内支配を行った。

現在、城跡には門・櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二の丸南隅櫓は国の重要文化財に指定されている。

中津城(大分県)
今治城、高松城とともに日本三大水城のひとつに数えられる。
1588年秀吉に豊後を与えられた官兵衛が築城を開始。

黒田家が関ケ原の戦いの功により筑前が与えられると、細川忠興が入封し改修し城郭が拡張された。

国府山城(兵庫県)
別名「妻鹿城」。標高102mの甲山に築かれる。
官兵衛の父職隆が姫路城から移り居城としていた。官兵衛も秀吉に姫路城を献上した後に移り居城とした。

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