初代 徳川家康
・織田信長、豊臣秀吉と共に三英傑に数えられ、260年に及ぶ江戸幕府の礎を築いた。
・三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した家康は一矢報いようと夜営していた武田軍を奇襲。崖にかかった橋に見せかけた布に、戸惑う武田軍は次々に転落したと伝えられ、今も「布橋」という地名が残る
・家康亡き後は「一周忌を過ぎたら下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」の遺言通り、日光東照宮に祀られ神格化されている。
2代目 徳川秀忠
・三男だが、上の子が切腹や養子になっていたため、家康の後継者となった。
・浅井三姉妹の末っ子「お江」を嫁に持つ(秀忠2度目の結婚)。娘の千姫は姫路城に深く関わり銅像が残る。
・関ヶ原の戦いでは戦に向け進軍中、上田城で真田親子の激しい抵抗や、天候不良により戦に間に合わなかった。また無理な進軍により兵を疲弊させたことに対して父家康から叱責を受けた。
3代目 徳川家光
・幼名は祖父家康と同じ竹千代
・参勤交代を制度化し、諸大名が力(資金)をためこないよう調節しを磐石のものとした。
・島原の乱ののち、宗教の拡大を危険視した家光は鎖国の強化とキリスト教禁止政策を行なった。
4代目 徳川家綱
・幼名は父家光と同じく竹千代
・先代が行ってきた力による政治から、各藩の大名への配慮を含んだ政策を行った。その中でも印象的は3つの政策「末期養子禁止の緩和(1651年)」「殉死の禁止(殉死の禁止)」「大名商人の廃止(1665年)」は三大美事と評価された。また、これらの政策は、祖父秀忠と側室の子「保科正之」が主導して行われた。
5代目 徳川綱吉
・3代目家光の4男
・病弱な兄、4代目家綱に代わり後継者候補となるが、家綱時代の大老が反対し別の人物を擁立した。この提案は徳川光圀(水戸黄門)により却下され、綱吉は5代目将軍に抜擢された。
・綱吉の代表的な政策「生類憐みの令」は悪政と言われる一方、戦国時代から払拭されない命を軽んじる考えを断ち、命を尊ぶための政策だったとも解釈されている。
6代目 徳川家宣
・父は3代目家光の三男、徳川綱重
・48歳で将軍になり51歳で亡くなるまで任期は約3年
・5代目綱吉の政策「生類憐みの令」や、酒の価格が高騰し民衆から不満の種となっていた「酒税」を撤廃した。
7代目 徳川家継
・父は6代目家宣。父が病に倒れたあと、歴代最年少となる5歳で将軍となった。
・幼く政治力がなかったため、家宣時代から重要さらていた間部詮房と荒井白石が政治を主導した。
・婚約者もいた家継だったが、幼くして病に伏した。これにより徳川秀忠から続く徳川宗家の血筋は断絶した。
8代目 徳川吉宗
・宗家が途絶え、後継問題となった江戸幕府。当日紀州藩五代藩主だった吉宗が将軍に抜擢された。
・暴れん坊将軍のモデルとして馴染み深い人物像
・江戸の3大改革の1つ「享保の改革」により幕府の財政は好転したが、重税や厳しい倹約により民衆の不満はつのり、多くの一揆が怒り、吉宗は「米将軍」とも呼ばれた。
9代目 徳川家重
・家重は8代目吉宗と側室との間に長男として誕生。家重31歳の時に将軍となったが、その後も吉宗が大御所として実権を握っていた。
・吉宗が次男宗武、四男宗尹を家重が次男重好を別家として取り立てたことで御三家の次ぐ家格を持つ御三卿が誕生した。将軍家に跡継ぎがいないとき、後継者を提供する役割をになった。
10代目 徳川家治
・9代目家重の嫡男。祖父吉宗の寵愛と熱心な教育を受け、聡明で多芸な人物へと育った。
・政治は父家治の代から仕えた田沼意次が主導して行っていた。吉宗の代から行われてきた農業を頑張って富を豊かにする経済政策から、商売(物流)により富を豊かにする経済政策に切り替えた。
・愛妻家で跡継ぎのため、1人だけ側室をもったが、男子が産まれると、子育ては正室に任せ、その後側室を持つことはなかった。